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⑦近代日本の男女 〜女性たちの近代職業〜



この記事では「働く女性とジェンダー」をテーマとした新作ミュージカル脚本執筆に向けて、ジェンダー格差について私が調べたことを簡潔にまとめています。

今回は近世日本の男女とジェンダー格差から、明治・大正の働く女性に関する記事をお届けします。


【前回までの記事】

①「古代日本の男女 〜ジェンダー格差の始まり〜」はこちらから。

②「中世前期日本の男女 〜固定観念的「女性の幸せ」の萌芽〜」はこちらから。

③「中世後期日本の男女 〜性的に消費されはじめる女性たち〜」こちらから。

④「近世日本の男女 〜従属させられた女性たち〜」こちらから。

⑤「近世日本の男女 〜大奥という働く女性の拠り所〜」はこちらから。

⑥「近代日本の男女 〜女性を家庭に押し込んだ明治維新〜」はこちらから。



これまでの記事で働く女性については、①女髪結という職業が禁止されたこと、②奥が解体され、朝廷に仕える女官は解雇されたこと、③遊女は侮辱され社会的価値が貶められたことなどを書いてきました。


これらは、①経済的に自立しようとする女性、②もともと男性より高い地位にあった女性や、③男性より高い地位になりうる女性を排除する動きでした。


明治に入ると、女性たちを家の中に押し込める教育がなされましたが、その一方で、文明開化や資本主義の要請によって、女たちは家の外に駆り出されました。




広がる女性の近代職業


明治時代に入って、男性たちは、家業、そして家の地位から解放され始めました。

社会的によい地位につき、世間に有名になる」という意味の「立身出世」という言葉がパワーワードになり、高等教育制度を受けながら、自分の努力によって新たな地位(仕事)を獲得しようと邁進しました。


一方で、女性が高等教育を受けたいと言うと「女性から逸脱している」「女性には高度な教育は必要ない」と批判されました。


ですが文明開化、資本主義の波に乗って、女性の職業も、

「着物の仕立て」「マッチ箱の箱貼り」「ハンカチの刺繍」「子守」「靴下の縫製」などから始まって、

「女性教師」「女工」「女性医師(小児科、産婦人科)」「看護婦」「電話交換手」「記者」「女車掌」「店員」など幅広く広がっていきました。


大正3年の読売新聞では「女性が男子の職業の縄張りを犯して、ますますその手を広げ、男子の生業を奪いつつある」と言う記事が掲載されるほど、女性の職業は目に見えてどんどんと増えていきました。




家庭に押し込めたいのに、増える女性の職業


明治政府は公の場から女性を締め出し、家の中に閉じ込めたいはずでした。

それなのになぜこの頃から女性の職業が増え始めたのでしょうか。

たくさんの仕事が生まれますが、それらの発生には大きく3つの背景があります。


・文明化

・女性の努力による開拓

・資本主義の要請


それでは順番にみていきましょう。

量が多いので気になる職業だけ読んでいただければと思いますが、最後の<事務員>は今後につながる内容なのでぜひ読んでください。




文明化(国際化)によって生まれた職業


<新産婆(助産婦)>

明治政府はまず富国強兵のために、人口増加政策を採用しました。

口伝と経験が頼りだった従来の「産婆」に対して、

西洋の衛生思想と医学的知識を持った「新産婆(助産婦)」の育成と増加によって、乳児死亡率の改善を目指しました。


いつの時代にも絶対に需要があって、しかも女でなければつとまらない職業であり、産婆は明治の時代には滅多にない確実な職業でした。


新産婆を育成する一方、女性が職業を持てば家父長制が弱まる危険性があります。そのため、教育課程の中ではいわゆる儒教的な「女らしさ」もあわせて教えました。

また名前のとおり、産婆は賤しい職業だと思われており、助産婦と名前が改められたのは昭和22年のことでした。



<女性教師>

教育を中央集権化して、全国に小学校の設置が進められる中で、明治政府と共通の理念を持った教員の養成が急務となりました。


政府は、幼い児童を教育するのは男子よりも女性が適しているという理由と、給料が男性よりも安く済むという理由で、女性教師の育成に乗り出しました。


しかし、女が知識を学ぶことさえ有害無益と考えられていた時代に希望者は少なく、教師になるような娘は容貌が醜く、縁遠いからだという評判がたったり、家名に傷を付けると言われたりしました。



<官営工場の女工>

明治政府が推進した殖産興業は近代的産業を育てることがおもな目的で、官営模範工場の建設、交通や通信の整備、貨幣・銀行などの金融制度の整備などが進められます。


女性の集団労働は民間の工場に先立って、官営工場に見られます。

明治5年、富岡製糸場はそのはしりでしたが、製糸という仕事がそもそも女性の仕事であったので、女性が採用されるのは必然でした。


これに比べて、明治8年に大蔵省印刷局が女工を採用したのは画期的でした。

印刷局は紙幣を印刷するところでもあるので、そのような重要な国家的業務に女をたずさわせることに異論もありましたが、時の局長の英断により実現しました。


女性を採用する理由は、

第一に、女子は体力において男に劣っているが、資性柔和で綿密であり、しばしば男に見るような怠惰の習慣がない。

第二に、感覚鋭敏で、綿密な仕事に向いており、一つのことに集中させれば堪能となる見込みがある。

第三に、仕事が静粛に行われる。

第四に、賃金が廉価で足りる。

ということでした。


以降同じような理由で、マッチ工場、煙草工場などの製造工場のほとんどで女工が採用されるようになりました。


女工の多くが出来高制で、女性たちは年少者から主婦まで、自分達の力量や家事との両立など生活のスタイルに合わせて自分の裁量で働き、賃金を稼ぐことができました。

ただし、たとえ男性より多く働いたとしても賃金は大変低いものでした。



<看護婦(看護師)>

明治10年、西南戦争の負傷者を憂慮した元老院議官佐野常民が、日本にもヨーロッパの赤十字社のようなものを作らなければならないと博愛社という団体を設立しました。

この頃の看護婦は軍隊の1部隊のようなもので、戦争があると兵隊と一緒に出征し、敵味方に関わらず看護しました。


当時、女が見知らぬ男に付き添って介護するなど大胆極まる行為であり、良家の子女のすべきことではないという考えがありました。

しかし、博愛社は明治20年に日本赤十社と改称し、万国赤十字社同盟の一員となりました。全世界で認められている国際的な活動に、政府も軍部も口を出せませんでした。


ところが、日清戦争をきっかけに「お国のため」に身を挺して働く女性たちが賛美されるようになります。彼女たちの働きは技術的なものだけでなく、優しさや癒しなど精神的な支えにも及び、日本の看護婦は<白衣の天使>と呼ばれるようになりました。


しかし、現実的には重労働や無償の奉仕を強いられ、それがながく尾をひいて戦後の看護婦の人権問題や労働問題につながっています。



<電話交換手>

電話交換局が開設されたのは明治23年でした。

そして、通信省が女性を採用しようとした職は電信技手という意外に技術的な部門でした。

しかも、そこで働いている男性の妻を採用しようとしました。

しかし、娘ならまだしも、当時家事の一切を背負った妻を家から駆り出すのは時期尚早であったようで3年後には採用が不可能だと結論付けられました。


その後、「新しい女」の職業として注目を浴びたのが、電話交換手です。

電話交換手は当初は男女混用でしたが、女性の方が声が澄んでいて聞こえやすく、与える感じが良いということで、次第に女性の割合が増えていきました。


夜間は男性が担当しましたが、女性の若く美しい声に魅力を感じる顧客から「交換手は女に限る」「男の交換手を廃止せよ」という意見が強まり、明治34年に男子交換手は廃止となり、昼も夜も全て女性が対応するようになりました。


交換手が電話を勝手に切ることは禁じられていましたが、男性のからかい電話が後を立たず、「君はいくつだい?」「名前は?」「〇〇時に会おう」などと話しかけられることが多々ありました。



<女優>

明治も残すところ1年となった、明治44(1911)年、日露戦争に勝利した日本は、「一等国」としての体裁を整えるため、帝国劇場を建設しました。その、杮(こけら)落とし公演で女優第一号が出演しました。


江戸時代から女優は風紀を見出すと禁止されていましたから、封建的な考えで育ってきた人々にとっては、蔑むべき対象で、遊女と同じだと語られました。

一方、若い女性に女優人気は高まるばかり。「危険極まる女優志願 良家の子女の夢にも思ふまじき事」と女性を牽制するような記事も出ました。


明治末の「女優第一号」森律子とは?】




女性の努力による開拓


<女医>

女性の医者は国が求めたものではなく、世間も予想していませんでした。

男性の社会の要求とはまったく無縁の、純粋に女性側からの発想で、まったく祝福されるものではありませんでした。


明治に女医第一号となった荻野吟子は、16歳の時にした結婚相手に性感染症をうつされ離縁されました。病に苦しみながら、治療を受けましたが、男性に病を植え付けられたのに、治療をするのもまた男性であり、診察のたびに屈辱的な思いに苛まれました。


そのような経験から、同じような悩みを抱える女性がいるはずだ、女の医者が必要だと考え女医を目指します。


しかしながら、女性に医学校は開かれておらず、なんとか医学校に入れても女子トイレはなく、男子医学生からいじめや暴力に等しい脅迫を受けることもありました。


卒業して医師免許試験を受けようとしても、それまで女性の医者がいなかったため、「前例なし」と受験資格すら与えられずに苦しみました。


そこで日本に女医がいた前例を示せば良いのだとアドバイスをもらい、女医に関する史実を見つけ、紹介状を書いてもらうことで、やっと受験資格が与えられ、合格した荻野吟子は、35歳でめでたく女医となりました。




資本主義の要請


<製糸・紡績・織物工場の女工>

製糸・紡績・織物について語ることは日本の資本主義発達しを語るようなものだと言われるほど、繊維産業は明治の富国強兵を支えた大きな柱でした。


しかし、その利益を創出するために幾万という貧しい家の女性たちが犠牲になりました。

身売り同然の契約を結ばされた彼女たちは、借金のかたにされ、低賃金労働、長時間労働はもちろんのこと、過酷な環境で働き、不衛生な住居に住まわされ、人とは思えないような扱いを受けました。


あまりの辛さに逃げ出す者も多くいましたが、契約に縛られて引き戻されてしまうことも多々ありました。

ルールを破ったり、怠けたと”みなされた”ものは、裸にして体罰を与えるよな工場もありました。


モノとして扱われ、企業競争、資本主義の犠牲になった女性たちの悲劇は、大正時代に細井和喜蔵によって、『女工哀史』として記録されました。



<店員>

江戸時代、店員といえば、男性に限られた概念でした。

呉服屋、酒屋、米屋、雑貨屋その他何にせよ、店員というのは男性が修行をしてからなるもので、無知な他人の娘に賃金を払って使用人として雇い入れる習慣はありませんでした。


しかし、西洋的な百貨店方式の経営を取り入れるようになった企業では、分業化によって職業の全てに精通する必要もなくなり、店員も年月をかけて養成する必要もなくなります。

ということは、わざわざ賃金の高い男性店員を雇う必要がなくなるのです。


人事の合理化によっって、現れたのが女性店員でした。

女性店員は働きが非常に真面目だという評価を得て、接客態度も好評だということで徐々に増加していきました。


三越などの百貨店は、女性が結婚、出産しても働き続けてほしいという意向を持つほどでした。しかし、結婚、出産をすると家からの反対があったり、当時全ての家事を請け負うのが妻や母でしたから、物理的に家事育児と仕事の両立が難しいと判断し、結婚後に仕事を辞める女性が多くいました。


一人前に働けるようになっても、いずれ「結婚して辞めてしまうこと」、それだけが女性店員の重大な欠陥だと言われ、大正時代に入ると、雇うのは「未婚の女性」に限られるようになってしまいました。



<事務員>

事務員はOLのはしりですが、事務員も男性の職業でした。

ここでも同じように、初めての女性事務員は仕事ぶりを非常に評価されます。


一方で仕事ができすぎる女性事務員は男性事務員から、妬まれ上司に気に入られているなどとの陰口を叩かれました。


事務員に限らず男女どちらもできる仕事は、どんどんと低賃金で仕事に誠実な女性の仕事となってゆき、職を奪われると考えた男性が多くいました。


働く女性が増えると、選び雇う地位にいる男性の欲求があらわになります。

条件は「美人であること」「未婚の乙女であること」「相当の家庭の人であること」です。


昭和にはいると、デパートガール、オフィスガール、バスガールなどの職業が花形職業と、もてはやされるようになりますが、

これは女性たちに、純粋な職業能力とは関係がない「容貌の美」を売らせる行為であり、


男性が求める性的消費サービスを女性が提供すること(美しい、優しい、サポートする、さからわない、まるで女中のような働き方)を働く女性に求め、

それを<女性らしさ><女性ならでは>と表現し、当時の女性たちもまたその間違った要求を受け入れてしまいます。


現在では「誰でもできる仕事」で「不要な女性らしさを求められている」と思われる仕事でも、当時の女性にとっては「自分に任された名誉の仕事」でありました。


そんな仕事が名誉になってしまうのはつまり、それまでの時代に、それだけ女性が女性だというだけの理由で、蔑ろにされてきた、あるいは社会的な知識、教育を与えられてこなかった事実を物語っています。




教育を受けるほど良妻賢母思考に


低賃金とはいえ、これだけ女性の職業が広がったにもかかわらず、教育では「良妻賢母」を教え込まれました。女性教育が発展して行けば行くほど、生涯キャリアという考え方が明らかに退化していき、女性は家庭に入ることを自ら選ぶようになります。そして、女性が働くことは「花嫁修行の一環」となります。


そもそも女性が低賃金である理由は、女性は女である前に妻、娘であり、

それは父、または夫に扶養されているということであり、扶養されているべきなので、

一人前の生活者とは考えられず、ひと一人が生きてゆくほどのお金は必要ないと、

低賃金で雇えることが常識となっていました。


「良妻賢母」教育はこの常識をより強固にするものでした。


ちなみに、日本が夫婦同姓になるのは明治31年からです。それまでは夫婦別姓でした。

夫婦同姓になることによって、女性はいよいよ父系家庭と隷属することになりました。


また、富国強兵の一環で、それまで武士の仕事であった戦いが、男性国民の役割となり、

男性国民は「兵役」を課せられるようになりました。

一方女性には、兵隊になって国を守る男性を、産み、育て、教育する役割が与えられました。




今回のまとめ


・明治に生まれた女性の新しい職業は、主に政府の方針である「富国強兵」「殖産興業」そして資本主義の流れから生まれた。


・多くの組織、企業が「低賃金であること」にメリットを感じ、女性を低賃金で働かせることによって利益を創出した。


・女性の新しい仕事は、常に人々の目に新しく留まり、社会や家族、男性から非難されたり、陰口を叩かれたりすることが日常茶飯事だった。


・女性たちの職業能力とは別に、貧困な家の娘であればモノとして扱われ、中流階級以上の娘たちは容貌の美を求められた


・女性教育が進めば進むほど、女性たちは自ら家庭の中に入っていくようになった



以上が、「近世日本の男女 〜女性たちの近代職業〜」でした。


この記事は、主に以下の本を参考に書いています。直接引用した分には(*1)(*2)(*3)(*4)を記載しています。

・大槻書店「歴史を読み替える ジェンダーから見た日本史」久留島典子・長野ひろ子・長志珠絵編(*1)

・講談社文庫「明治女性史(三)」村上信彦(*4)




【この記事について創造妄想トークをしているPodcastは以下のリンクから聞けます!】


ジェンダー格差と日本史を想像トーク!【近代生活編】

明治に資本主義が入ってきたことや女優の仕事について話しています。


ジェンダー格差と日本史を想像トーク!【近代職業前編】

製糸・紡績・織物工場女工の悲惨な仕事について話しています。


ジェンダー格差と日本史を想像トーク!【近代職業後編】

店員や事務員の仕事と性的消費について話しています。




【働く女性とジェンダー格差をテーマにした

 新作ミュージカル「最果てのミューズ(仮)」

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