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①古代日本の男女 〜ジェンダー格差の始まり〜



この記事では「働く女性とジェンダー」をテーマとした新作ミュージカル脚本執筆に向けて、古代日本のジェンダー格差について私が調べたことを簡潔にまとめています。

古代とは、主に縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代前期までを指します。


古代を通して共通の特徴は、男女ともに政治・祭事に参加していることです。

ところが平安時代に入ると女性は意図的に政治・祭事から排除される傾向が見られるようになり、家で家政をする役割を押しつけられはじめます。


なぜそんなことになったのでしょうか。

それでは順番に見ていきましょう!



I 縄文時代

性差と身分の差は紐付いていない


”縄文時代は、日々の食糧採集に追われる社会ではなく、複雑な文様で装飾された土器を作ったり、大規模は集落や巨大な建元やストーンサークルを気付いたりする文化を持つ高度に進化した社会であった。”(*1) と、言われており、その高度な社会の中で階層の分化が始まりました。


ただし、男女の差はただの性別の差であり、性別による分業や埋葬時の副葬品では男女の区別が見られる場合もありましたが、性差と身分の差とは紐づいておらず、女性が集落の族長であることもありました。



Ⅱ 弥生時代

女の首長が全体の三割から五割

卑弥呼は神秘的巫女ではなく、れっきとしたとした首長だった


邪馬台国の女王卑弥呼は古代でもっともよく知られた存在だと思います。

彼女は、”小国の首長たちから「共立」されて、連合政体の「王」”(*2)となりました。

小国が増え、”男女の首長たちが勢力を争う中から、盟主とするにふさわしい王として卑弥呼が選ばれ”(*1)、古墳から出土品に書かれた銘文からも、”対外的にも対内的にも優れた統率力を発揮した王だった”(*1)と推測されています。


考古学の分析からは、”女性首長が全体の三割から五割いた”(*2)と分析されており、卑弥呼を「共立」した小国の首長の半分ほどは女性の首長であった可能性が高くあります。



【トピックス】

明治時代にイメージ操作された卑弥呼像


”明治前期まで、「卑弥呼は神秘的巫女で政治は男弟に委ねた」とする解釈は成立していなかった”(*1)そうです。私も卑弥呼は呪術を扱う巫女だったと学びました。


しかしこのような説は、日清・日露戦争を経た1910年、「卑弥呼は、神の声を伝達するのに適した性質を持っていたので女王に推薦されたのであって、頭脳明細で戦に長けた素質があるからではない」と歴史学者、白鳥庫吉によって初めて唱えられはじめます。


「女性の英略」を認める先行学説をあえて否定して「古代から集団の本当のリーダーは優秀な男であった」とするイメージ操作は、明治の皇室規範などに基づいた女帝否定論を肯定すべく歴史が捻じ曲げられた事例と言えます。



Ⅲ 古墳時代

女性首長の急速な減少と中国の官爵体系


古墳時代後期になると倭の王たちは、「宋」から任命される「大将軍倭王」という称号(朝鮮半島での軍事支配権も含む)を得ようと必死だったそうです。しかしながら、宋の官爵体系において、将軍に任命されるのは「男」だけでした。


そのため「倭王」を含む首長層の男性化が押し進めら、九割以上が男性首長になったと考えられるそうです。まだ小規模な集団では女性首長も存在しましたが、卑弥呼のような女性大首長はいなくなりました。

これにより、性差と身分差が紐づきはじめました。


ーーーーー

現代の会社に例えると「社長や役員は男性、たまに部長や課長の女性もいる」みたいなイメージでしょうか。

中国の男性優位文明に順応してしまった古墳時代の事例と同じように、現代の社会制度も男性優位社会なので、女性が上層部の管理職になれないという現状が続いています。よく「能力で決めればいい」という論が横行しますが、決して女性の能力不足が原因ではありません。もし、本当に女性の能力が不足していると感じる場合、それは女性に対して行われてきた教育に問題があり、素質に問題があるわけではありません。



【トピックス】

「文明の輸入」と同時に衣服に現れた「性差」と「身分差」


とても面白いので、参考書籍の本文をそのまま引用させて頂きます。


”日本の衣服は、


①在来と外来

②男女

③身分階層


という三つの要素が絡まり合って、歴史的に変化してきた。


①外来の画期は2度あり、最初の古代国家成立期には中国服、次の明治維新期には欧米服が取り入れられた。どちらも、そのときの国家が目指していた文化モデルである。


②在来服が男女共通形態なのに対して、外来服は中国服も欧米服も男女の違いが明確だった。


③外来服は支配層から取り入れられたので、身分階層の違いが生まれる”(*1)


ということです。

これは、中国と欧米から「性差」「身分差」が輸入され、「思想」だけではなく「実感」として人々に根付かせる戦略として衣服の変更が取り入れられた事例と考えられます。


衣服の変化は主に権力層に取り入れられ、庶民は在来服を改良して着続けたそうですが、今の自分達の格好を見ると「性差」「身分差」を表す衣服を着ている、選んでいることに驚きます。



Ⅳ 飛鳥時代

「家族」の結び付きと「中国の法制・思想・文化」の導入


古墳時代の終わり(5世紀末)には中国への遣使は途絶え、中国皇帝の権威に頼らない独自の政治が行われるようになりました。その結果、世襲王権が成立します。直接的な軍事指揮能力よりも、血統的条件、熟達した経験、豪族たちを率いる人格的資質が求められるようになりました。

世襲制の導入により夫婦・家族・親族間の繋がりも強くなります。


中国皇帝の権威に頼る必要がなくなったので、倭王が男性である必要がなくなり、飛鳥時代中期(6世紀末)には女性倭王も復活しました。初代女性天皇の推古天皇です。以降、先王の血を引き、キサキとしての統治経験を持つ、統率力のある年長女性(40歳前後)の女性が次々の即位します。


しかし、この初代女帝推古天皇が約120年ぶりに中国に遣隋使を派遣してしまいます※

推古天皇は女帝でしたので隋に対して「倭王」の任命は求めませんでしたが、仏法を学ぶことを願い、中国の法制・思想・文化を日本の政治に取り入れました。


そこから約100年かけて、

・男女を明記し、男性を戸主とする戸籍の作成

・男性の徴兵、男性に代表させて税収を納めさせるなどの律令制度の導入

などを施行することで、権力を朝廷一箇所に集中させる中央集権化を完成させます。


これによって、中国思想の基本原理として内在する「父系・男性優位の理念」も、法制を通じて徐々に社会全体に浸透させていくことになりました。



【トピックス】

「聖徳太子」は存在しなかった?


※かつて、推古天皇の摂政であった聖徳太子が遣隋使を派遣したと言われていました。しかし、最新の研究では、聖徳太子は存在しなかったのではないかと言われています。

厩戸王(うまやどのおう)は実在していましたが、


(1)冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作

(2)憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した

(3)遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた


など、彼自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。つまり「遣隋使」を派遣しようと言い出した本当の人は、推古天皇だったのか、厩戸王だったのか、あるいは当時の権力者蘇我氏だったのか、真実はわからないということです。https://www.gqjapan.jp/culture/column/20160530/legendary-politician-prince-shotoku



Ⅴ 奈良時代

「双系的な家族」から「父系家族」へ。律令制度の本格始動


”古代(7世紀末まで)の系譜は「娶(みあ)いて生む児」という表現で、両親とそれぞれの祖の名前を数世代に渡って記載”(*1)しました。


天皇の系譜でも同じで、同母で一グループとして、男女が出生順に列挙される「男女混合名簿」の方式で、男女とも「◯◯王」と記されているので、『古事記』の系譜を見ただけでは男女の判別はできませんでした。


しかし、645年大化の改新後に「男女の法」が定められ、720年に完成した『日本書紀』では、初代神武天皇以来の父系皇位継承次第が記されました。


8世紀以降、同母異母にかかわらず、すべて父の系譜に子どもを書き込み、まずは男子、次に女子の名前を書き込む父系の系譜形式に移り変わっていきます。



また、律令制度もいよいよ社会の全階層に導入され、女性排除を原則とする官僚制支配の骨格が定まります。これが日本のジェンダー格差社会の始まりです。



Ⅵ 平安時代前期

中国思想が生活に具体的な影響を及ぼし始める


8世紀以降、皇后、キサキたちが内裏という天皇の私的空間へ移り住むようになり、独立性が大幅に失われます。


貴族ではない豪族以下庶民の間では、父系・男性優位の理念を含む中国の法制・思想・文化が導入されても、長らく女性の地位は低下せず、首長になったり、経営をしたり、財産を持つ権利もありました。

”9世紀半ば以前の地域社会においては、経済的・宗教的な生活の多くの場面で性別による文化が見られず、男女はほぼ同等な立場でその役割を果たしていたと”(*2)いいます。


しかしながら、9世紀後半から10世紀にかけて律令制度、そして中国から伝わった仏教が生活に浸透していくに従って、様相が大きく変化し始めます。


農業経営では男性が経営の主体で、女性を耕作労働力とみなす新たな労働規範が生まれたり、国家的な仏事は男性僧が担う体制が確立してゆき、神祇祭祀でも中核から制度的に女性を排除する傾向が見られるようになったそうです。


また、「女性は「家政」を担うべき」とする理念に基づく仏教信仰面での制約が、新たに女性に課されるようになります。

これは、富裕層の「イエ」を単位とする新たな社会が成立しはじめたためで、9世紀半ばごろから「男性家長権」が発達しはじめ、9世紀後半から、父系的な「イエ」が地域社会の基礎単位となり、「イエ」の代表者である男性家長が経営主として公的活動の担い手となっていったからだそうです。それによって、家長の妻としての役割を付与された女性たちは、時代の経過とともに「イエ」という私的世界の内側に押し込まれていくことになりました。



今回のまとめ

・古代の権力者が自分の権力をより強固にしたいがために、当時の文明国であった中国の「中国思想」を取り入れた結果、男女差別も一緒に取り入れてしまった。


・男性に有利な思想、体制、法律が全国で広まり、男性は棚ぼた的に地域や団体、一家を管理する役割が割り当てられる。男尊女卑のもととは知らず地域社会の男女も、それを受け入れてしまったため、のちの世で男女の格差が成立する。


・そこから、男性は「長」であり「公」の場を担当し、女性は「補助」であり「家の中」を担当するという社会的な役割が定着してしまった。


ということのようです。


つまり、男性にもともとリーダー的素質や交渉スキルが備わっているからではなく、

女性にもともとケアの能力があり家政が向いているからという理由でもなく、

古代に確立した男性優位な社会制度によって、ジェンダー格差のある社会的な役割が与えられるようになったのです。


以上が「古代日本の男女 〜ジェンダー格差の始まり〜」でした。


次回は「中世社会の男女」に迫っていきます。

どうぞお楽しみに。



この記事は、主に以下の本を参考に書いています。直接引用した分には(*1)(*2)を記載しています。

・大槻書店「歴史を読み替える ジェンダーから見た日本史」久留島典子・長野ひろ子・長志珠絵編(*1)

・企画展示「性差の日本史2020」国立歴史博物館2020(*2)



【この記事について創造妄想トークをしているPodcastは以下のリンクから聞けます!】




【働く女性とジェンダー格差をテーマにした

 新作ミュージカル「最果てのミューズ(仮)」

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