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②中世前期日本の男女 〜固定観念的「女性の幸せ」の萌芽〜

更新日:9月11日


烏帽子を被った男性

この記事では「働く女性とジェンダー」をテーマとした新作ミュージカル脚本執筆に向けて、ジェンダー格差について私が調べたことを簡潔にまとめています。

今回は中世前期日本の男女とジェンダー格差についてみていきたいと思います。

中世前期とは平安時代後期、鎌倉時代を指します。

前回の記事「古代日本の男女〜ジェンダー格差の始まり〜」はこちらから。



I 平安時代後期

身分の差と性差が紐づく


「官位よりすばらしいものがあるだろうか」

これは、清少納言が『枕草子』の中で、官位の高さが何にも勝る価値であると語った言葉です。古代日本で取り入れられた律令官僚制度、つまり身分の差が平安時代の宮廷内で定着していたことがわかります。


律令官僚制度は女性を公の場、政治・行政から排除するものでもありました。女性の仕事は天皇の私的空間がメインとなり、天皇のそばで仕える上級女性官人(女房)と、それぞれ特定の業務にあたる下級女性官人(女官)に編成されました。


下級女性官人が仕事で公の場、政治的空間に足を踏み入れると「取るに足らないものが幅をきかせている」と蔑まれることがあり、このことから一定以上の身分の女性が顔を醸しながら働くことを忌避する観念が生まれ「御簾(みす)」の中に籠るようになったそうです。


清少納言は加えて「男性は官位があがっていくにつれて社会的に重んじられていくが、女性はパッとしない」と言っています。このような昇進制度の男女差が、将来の男女の経済格差につながっていきます。



特例:「母」


平安時代前期9世紀以降、実質的に女帝はいなくなりますが、同時に天皇の生母が「国母」として尊重され大きな権限を持つようになりました。私が思うに、これは外祖父である「国母の父」が摂政の地位を獲得するために「母子の絆」を利用した結果であると思われます。ただし、国母には実質的な政治的権限がありました。)


同じ頃、史料のなかに、初めて性を売る女性が登場します。遊女と呼ばれるようになっていくこの女性たちの前身は専門歌人で宴会に参加し和歌を詠んでいました。

性を売るようになってからも、単に買春を行うだけでなく、流行の今様歌を取り入れたり、演奏しながら歌う芸能で、天皇や貴族の宴会に呼ばれるようになりました。


これらの芸能女性たちは決して軽視されておらず、上皇や貴族層の子どもをもうける場合も多くありました。たとえ遊女であっても、公家の子の母になれば特別な部屋を与えられて、従者もつきます。土地が分け与えられることもありました。


つまり、地位の高い夫の子供を産み、「母」になることで女性たちの権力が向上したのです。





Ⅱ 鎌倉時代

武家社会での女性の役割は「家」を繋ぎ、弔うこと


“貴族や武士の結婚は、婿取婚から嫁入婚へと次第に変化し、家父長的な「家」を形成しました。その「家」とは、選定の手続きをした嫡子が、父母の地位を継承し、物品を相続して、家業を営む場としての性格を持っていました。(*2)”


戦闘によって不安定な状況にさらされることの多い武士の家では、家の存続を図るために、一門、一族が集結し、婚姻による家族の新たな結びつきも重視されるようになりました。

女性は家同士を繋ぐ「妻」の立場は貴族とは異なって、重要な役割をはたしていました。


戦闘などで夫を亡くした妻には再婚するという選択肢もありましたが、出家して家にとどまる道を選んだ女性(後家)も多く、その理由のひとつが「妻は、一族の供養、夫の菩提を弔うべき」という仏教思想でした。



「後家」かつ「母」という立場で権力を持った北条政子


中世の家において、女性は夫の死後に家長として振る舞い、特に武家においては、公的にも家を代表する存在として、政治の表舞台に立つ女性もいました。


源頼朝の後家であり、実子である三代将軍実朝が暗殺された後、北条政子は幕府の運営を主導して、実質的な四代将軍として認識されていました。


北条政子といえば頼朝公のご恩は山よりも高く海よりも深い」と御家人たちを鼓舞した演説が有名ですが、この演説の際、政子は御簾の中に居たそうです。


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しかし、これはあくまで夫の死後、息子の死後(または後見人)としてのポジションであり、女性は「地位の高い夫」を利用しない限り、政治的権力を得られなかったということです。



徐々に奪われていく女性の財産


”中世、特に鎌倉時代には、女性は独立した財産を持ち、親の財産を子どもに分割して相続する場合には、女性に地頭職(与えられた土地を管理・運営する職)が与えられることも珍しく(*2)”ありませんでした。


皇族も母や皇女、高い位につけなかった后に「院」という称号を与えて、荘園とそれを管理する権利を与えたり、

”庶民でも女性は同様に財産権を持ち、財産を譲る対象となり、また相続した土地を売却する権限を持っていました(*2)。”女性自らの財産を使って土地を購入することも一般的だったそうです。


しかし武家においては、早くも鎌倉後期、所有する領土の分散を防ぐなどの目的で、嫡子単独相続が広がりました。たとえ相続されたとしても、女性の相続所領は子孫に引き継げず、女性の死後は生家に返還する、そもそも女性には少ししか相続させない、全く相続させない、などの動きが進みました。


そして、のちの室町時代では、荘園は武士に横領され、荘園制は事実上崩壊しました。庶民においても、男性が一家を代表する形になり、少なくとも書面上では、女性が単独で財産を処分することができなくなっていきます。



「妻」や「母」になることが「女性の幸せ」に

平安時代後期の公家政権に引き続き、鎌倉幕府でも各国を収める守護(大名の前身)や幕府の役人は全て男性に限られたそうです。


それは、女性個人の能力で高位の役職に就くことはできない社会の継続です。


加えて、親の財産を受け継ぐことも難しくなり、「地位の高い夫の妻や、その子供の母になること」だけが、女性の権利を得られるポジションとなります。


つまりここから、「より良い男性に嫁ぐこと」「男性に選ばれる女性になること」が「女性の幸せ」だと思ってしまったり、それを娘に強要してしまう固定観念の形成につながっていくのです。





今回のまとめ

・高い地位の役職につけるのは男性だけとなり、低い地位の役職にしかつけない女性の賃金は減り、必然的に経済的格差が生まれ始める


・女性は「母」になること、「妻」になることで政治的に利用される存在になる


・仏教思想の浸透により、女性は穢れて劣った存在と扱われ、権利を父、夫、息子に奪われ、従属する存在になっていく


・女性は家族の財産も引き継げなくなり、より経済的に豊かな暮らしをしたいと思うと、結局、位の高い男性に嫁いで「妻」となるか、その男性の子どもを産み「母」になるしか方法がなくなる。



と、まとめられそうです。


これまで私たちが考えていた「女性の幸せ」は、男女格差が広がる時代の中で女性たちが見つけ出した「苦肉の策」であったように思えます。

もし、歴史上に男女格差が存在しなかったら「結婚」や「出産」で悩む女性たちは今ほどいなかったかも知れません。


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  1. ジェンダー格差の表れは「貴族→武家→庶民」の順

  2. 女性の地位を貶める数々の仏教思想

  3. より位の高い男性に選ばれるために。「化粧」そして「男色」


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以上が「中世前期日本の男女 〜固定観念的「女性の幸せ」の萌芽〜」でした。


次回は「中世後期日本の男女」はこちらから。

どうぞお楽しみに。



この記事は、主に以下の本を参考に書いています。直接引用した分には(*1)(*2)を記載しています。

・大槻書店「歴史を読み替える ジェンダーから見た日本史」久留島典子・長野ひろ子・長志珠絵編(*1)

・企画展示「性差の日本史2020」国立歴史博物館2020(*2)



【この記事について創造妄想トークをしているPodcastは以下のリンクから聞けます!】

今回は、男性同士の男色関係についてトークしています。





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